Statement
私は相互干渉多世界を信じています。
相互干渉多世界とはパラレルワールドの存在の肯定と、それがこの世界と接点を持ち、相互的に影響・干渉し合っているということ。
絵を描いていると、不意に思うのです。
他者のような自分が、画面の「あちら側」には居て、画面越しに「こちら側」の私を観測している。
そして、描かれた図像が常に固定的な解釈をされないことを望み、次の一手を待っているのではないかと。
私はきっと、「別の私の存在」を図らずとも認識、感知しているのです。
私はこの頃、絵を描くという行為を「観測」と定めることにしています。
「あちら側」の私も同様に「こちら側」の私に観測されているのです。
それを自覚的に行うべきか、実はわかりません。
量子論においては観測されるまでは対象は波のような動きを見せる(であろう)に対し、観測された瞬間に粒となることも言われています。
イメージが常に流動性の中でキャンバスにとどまることを不意とするなら、無為の繰り返しかもしれないし、無為の中に見え隠れした意図が真意とするならば、例え決められたプロセスを踏んでも選択肢には常に抽象的な枠があります。
そうして発生する「予期せぬこと」は制作している者として楽しいけれど、それを癖や偶然とするより腑に落ちる理由が、パラレルワールドの存在なのかもしれません。干渉しあったパラレルワールドの存在を信じ、確認することが絵を描くという行為であれば、他者のような私の存在を感じさせるのだと思います。
量子論で用いられる、思考実験「シュレーディンガーの猫」における「量子的重ね合わせ」状態と、「二重スリット実験」における観測者の存在は、不可解な世界を再考し、絵を描く私には必要なモチベーションとなりました。
描かれたものは場であり状況・状態です。
時に俯瞰や傍観を装った観測者の目を重要としています。
田中良太